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   藤前干潟を守る会、辻淳夫さんのお話要旨

■藤前干潟とは

 藤前干潟は名古屋港の中にあり、工業地帯に囲まれた非常に狭い地域だが、シギやチドリなど渡り鳥にとっては休息地として重要な中継地になっている。
 北はシベリアから南はニュージーランドまで1万キロもの距離を飛翔する鳥の渡りに私は感動し、そのすばらしさを伝えたいと思って30数年になる。
 日本には、東京湾、伊勢三河湾、大阪湾、瀬戸内海、有明海など遠浅で潮の満ち引きが大きい場所に干潟が形成されてきたが、多くは工業化の過程で埋め立てられていった。

■埋立計画と干潟保全運動

 名古屋港においても50年代から臨海工業開発が進み、64年の東京オリンピックの年を境に干潟がたくさん残っていた西部も埋立が進み、その中で幸運にも海面下土地の私有権問題で実行が遅れた藤前干潟に渡り鳥が集中することになったが、84年には、この最後の餌場にゴミ埋立計画の話が出てきた。
 それに対して私達は干潟を守るための運動を行った。干潟の観察会やゴミ問題を考えるシンポジウムを開催。また、署名運動を展開したり、NGO・研究者の協力を得て、行政による環境アセスメントの誤りを指摘した。
 署名運動では、10万人の署名を集め、自民党から共産党まで全党派の支持を得た。そして、92年には埋立計画が半減されることになった。
 またアセスについては名古屋市から準備書を25人分借りて、インターネットも利用しながら専門家に意見を求めた。準備書の「影響は小さい」とする結論に対し、鳥の採餌行動や底生生物による浄化能力を調査し、干潟の価値を立証した結果を公聴会の場で突き付けた。そうしたことを受けて、名古屋市のアセス審議会が「影響は明らか」という答申を行った。「人工干潟」による代償措置を想定して、事実上、埋立を容認したので、市は埋立申請手続きを進めたが。

■世論の高まりと埋立計画断念

 そうした中で97年に諫早干潟での「ギロチン(湾の閉め切り)」の衝撃があり、全国各地から自然破壊の公共事業への憤りの声が上がった。
 そこでメディアも全国的な問題としてキャンペーンをはるようになり、新聞社の世論調査で、69 %の人が藤前の保全を支持した(ゴミ埋立推進15 %)。
 世論の高まりを背景に環境庁も「人工干潟」による代償は不可能と明言し、代替案協議を求めるようになり、99年に名古屋市は埋立て計画を断念することになった。

■循環型社会に向けて

 藤前断念の時点で、埋立処分場はあと2年と切迫しており、周辺市町の受入れが四面楚歌の中で名古屋市は非常事態宣言を出し、はじめて2年で2割のゴミ減量計画を掲げ、できることは何でもという必死の努力を始めた。藤前干潟の保全を求めた市民も、その責任感からごみ減量・資源化分別への自発的は協力をして、それを達成した。
 また、断念当時、名古屋市・愛知県は、藤前の代替として木曽川河口の浅海域にさらに大きな広域処分場をつくる構想をもっていたが、もしそれをやっては「藤前英断」の意味がなくなると、水面下の厳しい折衝をしてきた。そして、処分場の拡張と埋立ゴミの半減で、処分場が15年使えることになったことも幸いして、01年松原市長は「もう海は埋めない」という決断をした。それがあって、晴れて、藤前干潟をラムサール登録地にすることになった。
 しかし、ゴミは減っても名古屋市の焼却炉は減っていないし、リサイクルはいい!という考え方にも問題がある。輪を閉じていない「リサイクル」で衰退させられたリユースを復活させ、川上の生産現場からゴミを発生させない設計、自然循環のしくみに則った「ゴミゼロ」社会を実現させたい。
運動が成功したのはなぜか?
 鳥のことだけではなく、誰もがわかるゴミの問題、環境の問題として受け入れられたこと。自治体と市民団体のどちらが正しいことを言っているのかというせめぎ合いの中で、インターネットも活用して広く世論に訴えたこと。その上で諫早の問題が重なり、研究者やNGOの協力に加え、メディアも巻き込んだ運動ができたこと、などが成功につながった。
 藤前干潟は守られ、02年にはラムサール登録もされたが、それで決して最終ゴールとはいえない。むしろ持続的な社会実現やゆたかな伊勢湾を取り戻してゆく出発点だと考えている。  (編集部要約)

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